2010年11月6日土曜日

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Facebook誕生の舞台裏(抄訳)

この記事を楽しむために、ちらっとでいい、この動画をみて欲しい。
時の人、マーク・ザッカーバーグ。
「ハリウッドの連中にはモノづくりが本当に好きでそれだけで作っちゃうヤツがいるってことが信じられないみたいなんだ」
なんて言いながらステージでスポットライトを浴びる彼は、いかにも無垢でモノづくりが好きでたまらないって感じの好青年だ。事実それも彼の一面だろう。

だが強い光を浴びれば浴びるほど、彼の影の部分をクローズアップしようとする動きも活発になる。さまざまなメディアが称賛する人物についてこのような視点から書かれた記事を抄訳するのは正直迷った・・・ぼく個人としては彼のFacebookに関してはまったく中立な立場なのだから。

だがベンチャーの舞台裏としてはひたすら面白いのだ。そして読後のぼくのほうがザッカーバーグに興味をもったことは間違いない。しかも本家サイトの記事は140万ページビューを超えている。語られていることをどこまで受け取るかは読者個々にゆだねるとし、こうした見解を日本語圏に紹介することに意義を感じ抄訳を手がけたしだい。

Facebookを最初に考えたのは誰なのか?

映画より一足早く、人間マーク・ザッカーバーグをお楽しみください。

『facebook(フェイスブック)』を既読された方いらっしゃいましたら、ここに描かれている内容と書籍の内容がどれくらいオーバーラップしているのかなどコメントいただけたらうれしいです)



*   *   *

At Last -- The Full Story of How Facebook was Founded
Nicholas Carlson
Business Insider, SAI, March 5, 2010

『Facebook誕生の舞台裏』
ニコラス・カールソン
ビジネス・インサイダー|SAI|2010年3月5日(抄訳)


ハーバード大学二年のマーク・ザッカーバーグ(19)が2004年2月4日に開設したときから、Facebookはすでにトラブルの渦中にあった。

当初”thefacebook.com"と名づけられたそのサイトはすぐにヒット・サイトなった。それから6年後、そのサイトは月間4億ユーザーを抱え、世界最大級のサイトの一つに挙げられるようになる。

Facebookをめぐるトラブルはすぐに表面化した。サイト開設のわずか一週間後、マークはハーバードの三人の四年生から「アイデアを盗用した」として非難されている。

それからほどなくしてそれは本格的な裁判沙汰へと発展してく。例の四年生たちが創業した会社がマークとFacebookを相手取り、窃盗罪と詐欺罪で訴えを起こしたのだ。そこに端を発した係争沙汰は今日まで続くことになる。

シリコンバレー・アレー・インサイダーによるとマーク・ザッカーバーグに対して申し立てられた嫌疑のいくつかは事実である可能性が高いとされる。その中には、マークが2004年中にすくなくとも一度はFacebookのサーバーに不正にアクセスし登録会員の メールを閲覧したこと、競合サイトのシステムに不正に侵入し、サイトの不具合を意図したユーザー情報の改ざんをおこなったことなどが含まれている。

ハーバード大4年のキャメロンそしてタイラー・ウィンクルボス(Cameron and Tyler Winklevoss)とその同級生ディビア・ナレンドラ(Divya Narendra)は、のちのFacebookそっくりのサイト製作をマークに依頼していた。マークがその製作を引き受けたことが法的な”契約合意”にあたるのか?Facebookのアイデアが誰に帰属するのかをめぐる係争ではそこが焦点になった。

この訴訟は必ずしもウィンクルボス兄弟有利に展開していったのではない。

2007年、マサチューセッツ州判事ダグラス・P・ウッドロックは「寮の一室でしゃべった内容が契約行為に当たるとは言えない」として、ウィンクルボス兄弟の申し立てを「薄皮一枚ていどの根拠」とコメントしている。だが一年後、判決はFacebookを不利とし、その後当事者たちは示談金で和解することになった。

しかしそれもすんなりといったわけではない。

Facebook側が和解を発表し、和解調停が完結するまでの間に、ウィンクルボス兄弟の弁護士はマークの詐欺罪の証拠(メールやメッセンジャーの記録)が残留している可能性があるとして、彼のパソコンのハードディスクの提出を求めたのだ。

だがこの申し立てを判事は受け入れず、代わりに和解に向けて調整するよう取り計らった。だがその申し立てが聞き入れられていたら、メールやメッセンジャーの記録には何が書かれてあったのか、当事者ならずとも関心を寄せるところだ。ほんとうにマークはウィンクルボス兄弟のアイデアを盗んだのか?彼らにいっぱい喰らわせてFacebookとともに去っていったのか?

結局、マークのハードディスクは公にされることはなく、誰にもその真相は掴めなかった。

だが今、その幾つかを我々は入手している。

そして過去二年にわたり、12人を超える情報筋にインタビューを試みてきた。その中には創業した年にFacebookに関与した人たちも含まれる。同時に、同時期のメールやメッセンジャーの記録と思われる資料も検証してきた。そのほとんどは公に知られていないものだ。そしてマークやFacebookによって実物と確認されたり承認されたりしたものはひとつもない。

入手した資料にもとづき、我々が完全に近いと理解しているFacebook誕生の舞台裏をここに紹介する。

このことは何をもたらすのか?

我々の結論は最後に述べるとしよう。

*   *   *

2003年秋、ウィンクルボス兄弟とディビアはウェブサイトを作ってくれるプログラマーを探していた。ディビアが2002年に思いついた企画をカタチにするためだった。その企画とはハーバードの在学生と卒業生をターゲットにしたソーシャル・ネットワーク・サイトだった。彼らはこれを”HarvardConnections.com"と呼んでいた。

彼ら三人は当初、別のハーバード大生ビクター・ガオ(Victor Gao)にその製作を有償で依頼していたが、その年の後期授業が始まる頃、ビクターの方から断りがあった。ビクターが自分の後釜にと推薦したのがニューヨーク州ドブズフェリー出身のハーバード大二年マーク・ザッカーバーグだった。

その少し前からマークはキャンパス内では”Facemash”という”Hot or Not”のハーバード版クローン・サイトを作った二年生として知られていた。マークがFacemashで有名になったのには二つの理由がある:


  1. マークがこのサイトを手掛けることで物議を醸したということ。このサイトはハーバード大学のオフィシャルページから学生の顔写真を自動的に抽出してしまうというものだった。サイト訪問者は常に二人の学生の顔写真を見せられ、どっちか魅力的な方に投票するよう仕向けられた。またこのサイトでは投票順にハーバード大生をランクづけてもいた。秩序を重んじるキャンパス方針を持つハーバード大学で、その行為はすぐに物議となり、マークは大学の教化委員会に呼び出された。2003年11月19日付の学内誌によると、マークは学生個人のプライバシーと肖像権と身辺保全を侵害したと記されている。記事は、マークにとって幸いなことに停学は免れたとしている。
  2. Facemashでマークが有名になった二番目の理由は、それがヒット・サイトだったからだ。同学内誌によれば、そのサイトは開設から二週間で450人のユーザーが訪れ、22,000回の投票が行われたとされる。一人が実に48回も投票した計算だ。


ビクターはマークのこのヒット・サイトを作るセンスを買って、ウィンクルボス兄弟に推薦したのだった。彼ら三人はマークにコンタクトし、四人は会うことになった。

11月30日の晩、彼ら四人は学内のカークランド・ハウスという寮のカフェテリアで初めてあった。ウィンクルボス兄弟ら三人はHarvard Connectionの企画を説明し、

  • 初期はハーバード大生のみを対象にし、会員登録には”harvard.edu"で終わるメルアドを持っていなければならないこと
  • 第二段階として、このサイトを国内の他校を対象に拡げていくこと

を語った。この時、マークはこの企画に並々ならぬ関心を示したとされる。

その晩遅く、マークはウィンクルボス兄弟とディビアに「送られてきた資料に目を通しました。実装までにさほど時間はかからないと思います。明日の晩までに基本的な部分は作り込んでおくのでまた会って話しましょう」とメールしている。

翌12月1日、マークは彼らにまたメールを送っている。「二つの登録画面を一つのページにまとめました。ぼくのマシンではすべての動作を確認しています。これからそれらを組み合わせていくので進捗をアップデートしていきます。動作の連結まですぐです」

この二つのメールを読むと、この企画のメンバーになりたくて、せっせと作業をこなしている印象を受ける。

だが数日を過ぎたあたりから、マークからのメールはトーンが一変する。熱心に製作していた雰囲気から、学業に忙殺されコーディングの時間が割けないといった雰囲気に変わっていくのだ。

12月4日。「今晩は連絡がとれません、あしからず。そちらから三件の留守電を聞きました。大学の課題をしていました」

12月10日。「今週は忙殺されててまだ作業ができていないどころか考えるゆとりもない状態です。打ち合わせの内容がまとまるまでミーティングは延期させてください。明日もかなり忙しくなるので会えないと思います」

一週間後。「ここ数日連絡を返さずにすみません。一日のほとんどを大学のラボでコンピュータサイエンスの課題に費やしている状態です」

そして最後に開けて1月8日。
「返信に時間がかかってすみません。大学の課題でまたも忙殺された一週間でした。月曜日までに課題の三つのプログラミングと期末ペーパーの提出があるんです。そしてまた別の二つの課題を金曜日までに仕上げないといけない状態です。だけど火曜日からはサイトについて打ち合わせができると思います。このサイトの機能だけで本当に十分に集客でき、運営コストをカバーできるだけの成長に達するのかちょっと自信がないんです・・・いずれにせよ他のことを片づけたあとに話し合いましょう」

HarvardConnectionに対するマークの変節ぶりの裏に何があったのか?本当に大学の課題で忙殺されていたのが理由なのか?あるいはHarvardConnectionの創業者たちが主張するように、マーク自身のサイトを最初にリリースできるよう、HarvardConnectionのサイト製作をわざと遅延させていたのか?

我々の調査は後者の可能性を示唆している。

マークとFacebookに対する裁判の証拠として、上記のメール内容はここ数年、公開されてきた。公にされることがなかったのはその頃マークが彼の友人や両親、あるいは親友に語っていた内容の方だ。

マークが12月7日にFacebookを共同で創業した同じハーバード大生のエドアルド・サベリン(Eduardo Saverin)に送ったメッセンジャーの内容を見てみよう。

よくFacebookへの最初の出資者としてペイパルの前CEOピーター・シール(Peter Thiel)が取り上げられる。2004年に初期ラウンドとして、Facebookの価額を500万ドルと評価し、50万ドルを出資したからだ。だが本当の最初の出資者はマークの同級生だったエドアルドだ。

エドアルドはスーツを着て講義を受講するようなタイプで、とにかく金持ちという印象を振りまくのが好きな男だ。また一部では彼はブラジルのマフィアとつながりがあるともされる。マークはあるとき別の友人とのメッセンジャーのやりとりの中で、エドアルドを”投資クラブのヘッド”と称し、彼が裕福なのはブラジルで合法的に株のインサイダー取引を行っているからだとしている。

エドアルドは長い間、Facebookに直接かかわることはなかった。2004年夏、マークがパロ・アルトでFacebookにフルタイムで関わるようになるころ、エドアルドはニューヨークのリーマンブラザーズで高給を稼ぎながらインターンをしていた。その頃のマークはまだ大学には在籍している状態で、この時期のFacebookに絡む出費はエドアルドが資金的に支えていたとみられている。エドアルドはこうして出資をするようになった。

ところが2004年1月の時点で、マークはある友人に「サーバー代はエドアルドに支払ってもらっている」と明かし、「エドアルドが会社の30%を保有することを条件に、15000ドルの出資をおこない、4月にはFacebook LLCを設立する予定だ」としている。

2003年12月、マークが例のHarvardConnection 組に多忙を言い訳にしているころ、エドアルドには違う内容を語っている。2003年12月7日、我々の検証によるとマークはエドアルドに次のようにメッセンジャーで語っている。
「このサイト:www.harvardconnection.comとHarvardConnection.com/datehome.phpを見てみてよ。デート・サイトをすでに作ろうとしているのがいるんだ。だけど彼らは失敗をやらかした(笑)彼らは僕にこれを作ってって言ってきたんだ。今はわざと遅らせている。”facebookみたいなもの”(訳注:顔写真が並んでいるデートサイトの意)ができるまで彼らは用意できないってわけだ」

このことはマークがウィンクルボス兄弟たちと最初にあってから一週間も経っていない時点で、すでに同じようなサイト”facebookのようなもの”を作ろうと決めていたことが伺える。またHarvardConnectionの製作を戦略的に遅らせようとしてたことも。

それから数週間後、マークはHarvardConnection組と二回目の話し合いを持った。

その時の話し合いはマークの寮の部屋でおこなわれた。そのときディビアは遅れてきたとされる。

ハーバード大学寮カークランド・ハウスは箱型の構造ではなく、マークの部屋には細長い廊下があり、隣の部屋とつながっているような仕組みだった。ウィンクルボス兄弟はマークの部屋にあるカウチに腰かけていたのだが、その時兄弟の一人キャメロンには廊下のあるモノが眼にとまった。本棚の上にホワイトボードがあったのだ。それはウェブサイト製作の現場でアイデア・マッピングのために一般的に使われているのに似ていた。

キャメロンはそのボードに"HarvardConnection”と書かれているのに気づき、近づこうとするとマークが「廊下には近づかないで」と遮った。

その後ディビアが到着し打ち合わせをしたが、その中でマークは、HarvardConnectionで人気を得たユーザーがストーカーやあるいは別の嫌がらせを受けないために追加する機能を提案した。

この時まで、マークは製作に熱心な雰囲気を醸しだしていたが、HarvardConnection組にプロトタイプやコードを見せることは一切なかった。彼らもまた見せるよう要求はしなかったのだ。

このころマークは友人の一人アダム・ダンジェロ(Adam D'Angelo)とメッセンジャーでやり取りをしている。

アダムとマークは高校時代に同じ寄宿舎ですごした友人同士で、一緒にSynapseと呼ばれるミュージック・プレーヤーを開発している。これはユーザーの嗜好にあわせ選曲してくれるといったプログラムだった。2002年、マークはハーバードに、アダムはカルテックにいくことになったが二人の交流はAOLのメッセンジャーを通じて続いていた。アダムはのちにFacebook CTOになっている。

アダムとのやり取りとされるメッセンジャーの中で、マークは”facebookのような
もの”と”例のデート・サイト”(訳注:HarvardConnectionのこと)をどれだけ別ものとして扱っていたのか、そして後者への対応をどう懸念していたのかが読み取れる。

マーク「おれが例のデート・サイトを作っているのを知ってるだろ」
マーク「”facebookのようなもの”とやっぱ似すぎるかな」
マーク「リリースも同じ時期になっちゃうしな」
マーク「ま、俺がやつらにいっぱい喰わせておいて、こっちのを作りあげる直前に彼らの仕事をやめちまえば別だけどな」
アダム「ハハハッ」
マーク「もしデート・サイトだって知ってたら、みんな登録しないと思うんだよな」
マーク「デート・サイトってみんなうがってみるじゃん」
マーク「だけど例のデート・サイト組(訳注:HarvardConnection組のこと)はうまく宣伝すると思うよ」
マーク「うまい解決策ないかな」
マーク「facebookみたいなものも競合サイトとリリースのタイミングが違えば人は集まるとおもうけどね」
マーク「二つのサイトが同時に始まったら互いに相殺しあっちゃって結局どっちもうまくいかないよ。なんかアイデアある?たとえば二つのサイトを統合して一つにするみたいなね」
アダム「フレンドスターみたいなオープンなネットワークを作ればいいんだよ(笑)スタンフォード大学にもキャンパス専用だったらできてるよ」
マーク「そんなのをfacebookでやろうとしてんだ。それとfacebookが違うのは、facebookではデート相手を見つけたりすることさ。これは他ではできないからね」
アダム「だな」
マーク「ほかの人のためにこんなことやるってのも嫌いだ(笑)ほかの人の下で働くことも嫌だ。やっぱfacebookを完成させたほうがいいな。で、向こうの連中とは約束の納品日まで待って言ってやるのさ、”ほら、そっちのはこっちほど凄くないだろ!?”って。で”こっちに参加したいならしてもいいよ”って。”それがいやなら俺のがおわってから手伝ってやるよ”ってさ。やりすぎかな?」
アダム「彼らのは単純にほっとけば?」
マーク「そうやりたいんだけどあいつらにもプログラマ―がひとりいるんだよ。彼だけでも完成させられるし、彼らには広告とか人を雇える金がある。あ、金なら俺もあるや。俺のダチでさ、助けてくれるってヤツがいんだよ。投資クラブのヘッドでさ。明らかなインサイダー取引でもブラジルでは合法だっていってさ。んで金もってんの(爆)」
アダム「(爆)」

マークがHarvardConnectionとfacebookの情況について語ったのはエドアルドとアダムの二人だけではない。我々が調べたところでは彼は近親者やハーバード大生で仲の良かった女友達とも多くのメッセンジャーを交わしている。

2004年1月14日。マークは最後にするつもりでウィンクルボス兄弟とディビアの三人に会っている。最初と同じマークの寮のカフェテリアでだ。

この時点ではマークのサイト、thefacebook.comは完成していなかった。だが彼は急ピッチで製作していた。エドアルドにはサーバー代を用立ててもらっていたし、アダムには
HarvardConnectionは完成させずにthefacebook.comを作るつもりだと告げていた。そしてドメイン名も取得していたのである。

この時のマークには次のどちらかが選べた:

  1. HarvardConnection の企画から抜けると伝えること
  2. thefacebook.comが立ち上がるまでなんとかこうした状況を引き延ばすこと


マークはこの二択について親友たちにアドバイスを求めている。そのうちの一人は彼にこういった。「私を知ってるでしょ。私だったら人が嫌がることは絶対にしない」

この友人とマークは次のようなメッセンジャーのやり取りをおこなっている:
友人「で例のサイトのことについて何か決めたの?」
マーク「ああ、一発かますことにした」
マーク「おそらく年内だ」

そして彼は本当にそうしたのだった。

寮のカフェテリアでの最後のミーティングの中でマークはHarvardConnection.comを最後まで製作できないかもしれないと述べている。個人的なプロジェクトや大学の課題で多忙を極めておりしばらくはまったく手をつけることができないと言ってみたり、あるいは遅延をほかの人のせいにしたりした。

彼は自作のサイトのことは一切話さなかった。

このミーティングのあと、マークは前述の女友達とメッセンジャーでやり取りをしている。その中で彼は、HarvardConnection組に脅されてビビッてしまい、自作のサイトを告げることができなかったと説明している。この時、マークは彼らを「運のないヤツら」とも表現している。

そしてどうなったか?

その最後のミーティングの三日前の1月11日に、マークはTHEFACEBOOK.COMというドメインを取得していた。

2月4日。マークはそのサイトをハーバード大生むけにオープンした。

2月10日。キャメロン・ウィンクルボスはマークに契約を破棄し、彼らのアイデアを盗用したことを非難する手紙を送りつけた。

5月の終わり、あれから二人も開発者を変えて、キャメロンとタイラーとディビアはHarvardConnectionをConnectUというサイト名で立ち上げた。15校を対象にしたソーシャル・ネットワーク・サイトだった。

2004年6月10日。卒業式の講演者の一人はthefacebook.comのおどろくべき人気ぶりを紹介した。

2004年夏、マークはパロ・アルトに移りフルタイムでFacebookに携わるようになった。そしてほどなくピーター・シールから50万ドルの出資を受けることになる。

2004年9月。ConnectUとなったHarvardConnection組は、マークと法人化したFacebookを相手取り、契約不履行とアイデア盗用の件で訴えた。

2008年2月。FacebookとConnectUは示談で和解することに合意した。

2008年6月。ConnectU社はこの和解を破棄し、カリフォルニア第九地裁にFacebookを訴えた。理由は情報不開示で株取引を行っていることについてであり、これは現在も係争中である。

Facebook社に今回我々が調べ上げた内容の事実確認を要請したところ、同社より次のような回答があった。

「この不快な係争と当社の初期の歴史を不当に書き換えようと、そして日付の証拠と共にマーク・ザッカーバーグを辱めようと試みる匿名の情報提供者とされる人々について、敢えて議論するつもりはありません。マーク・ザッカーバーグがハーバードからシリコン・バレーに移り住んでからの6年。彼が当社をけん引し、一大学サイトから、4億人ユーザーの生活に欠かせない世界的なサービスまで成長させたことは疑う余地のない事実です」

後半の記述は誰もが認めるところだ。驚くべきにあたいする業績であることはまちがいない。

Facebook誕生の舞台裏を俯瞰してきた我々に言えることは何か?


  1. マークとウィンクルボス兄弟との間にHarvardConnectionの製作を受発注した合法的な契約があったとの証拠は得られなかった。
  2. 明らかになったメールやメッセンジャーのやりとりを含めたとしても、彼らが争っていた”合意”というものは判事が述べたように「寮の一室でのおしゃべり」程度のものでしかない。
  3. マークにはFacebookとHarvardConnecdtionは同じユーザーを想定した類似のサイトであることを意識していたと思われるフシはあるのだが、同時にいくつかのサイト機能において違いのあるものを製作しようとしていたフシもある。
  4. だがマークはサイト同志がバッティングすることを予見していたがゆえに、HarvardConnectionの製作をわざと遅延させ、その結果thefacebook.comを成功裏にオープンさせることができた。

そして最後に、HarvardConnection組がこの一連の係争で得た6500万ドルという巨額の賠償金を考えると、我々が調べ上げた何をとっても二か月間あまりの中でおこった出来事の代償としては破格なのはまちがない。そしてそれから6年、マークはfacebookを巨大な世界企業に育てあげたのだ。

映画『ソーシャル・ネットワーク』真実はどこまで描かれているのか・・・

それにしても・・・我々の調査で浮かび上がった、マークの人となりを懸念させるふたつのエピソードの方が問題かもしれない。いずれもFacebookを立ち上げたころのことだ。一つはFacebookのログイン情報を流用して、彼がハーバード大の学内誌編集者の個人メールアカウントに侵入していたこと。そして一つはConnectUのサイトに不正侵入していたことだ!

(了)